目の前で、細い喉笛が反る。
「……う、……く、ぅ」
震える指。呼吸に合わせて弾むなだらかな胸。まっすぐに引き結ばれた唇から、時折こぼれ出る悲鳴のような吐息。彼女の瞳がじっと僕を見つめている。今にもあふれそうになる涙の粒を、長いまつげのふちに留めたままで。
「……ッ、あう、……った、……ぃ……」
「……あんまり、息を止めるなよ。却ってよくない」
「……うぅ……」
そっけない僕の言葉に、ものも言えず彼女は呻く。
うす紅に染まった頬を、やわらかそうな髪が身じろぎの度にさやりと撫でる。折れそうなほど華奢な首筋に浮かぶ汗は、絶えない痛みのせいか、それともこんな様子を人目にさらす恥ずかしさのせいか。悠長に理由を確かめていられるほどの余裕は、今の僕には残念ながらない。
「しば、……ねぇ……、……ほんとに……」
「大丈夫。怖がるようなことじゃない」
すぐ済むから、と、つぶやく声を上ずらせずにいられただろうか。
差し出された片脚に指のはらで触れながら、必死になって、なんでもないような表情をつくる。ふだん丈夫なブーツに隠されているその場所は、まぢかに見るとひどく白い。爪先、足首、そしてゆるやかな線を描くふくらはぎ。女の子の身体というのはみんなこんなに脆そうなものなのか、それともこの子だけがとくべつ、華奢であやうげなつくりをしているのだろうか。
「いくよ」
「ひ、ッ」
あざやかな落ち葉色の髪を彩る、小さな飾りが音もなくゆれる。いい、ともいや、とも声が聞こえないうちに、僕はその部分に突き立ったものを動かす。
堪えがたい衝撃を拒むように、彼女が何度も首を横に振る。肌のうちがわからにじみ出る、生暖かい液体。ふたりとも息を止めれば、したたる水音が鼓動よりも大きく聞こえそうだ。
「痛、……ちょっと、もう、……なんで……」
「こういうのは、一気にやった方がいいんだ。へんに長引かせるよりも」
「……わかってるけど!……だけど、痛いものは、痛いんだってば……」
ふたたび、視線があう。
透きとおった明るい茶色のまなざしが、なにか訴えかけるように僕をとらえる。言いようのない居心地のわるさを振り払いながら、黙って手を動かすほかにない。
だけどもしできたら、今だけは心の中を覗かないでほしいと思う――自分で言うのもなんだけれど、きっとみっともないほど慌てているはずだから。
「もうすぐ終わるから。我慢しろよ」
「……さっきも、そう言った……ッん」
互いの息遣いが聞こえるほど、身体を寄せ合ったまま「こと」を進める。彼女はもちろん、僕にしてもたぶん限界に近い。口の中は舌が貼り付きそうなほど乾いているのに、バンダナは汗を吸ってじっとり湿っている。少しでも気を抜いてしまえば、糸が切れた人形みたいに倒れ込んでしまいそうだ。
深く、息を吸う。集中して。身体が接しあうその部分を、なるべく、傷つけないように。彼女がぎゅっと目をつぶる。わななく唇の色を、喉元に落ちた影を、うまく視界に入れないようにして――僕も――てのひらを開く、そしてひと息に、身体の奥からすべてを送り出すイメージとともにつぶやく。
***
「ニュウエアー」
***
「あーもう!痛かった!」
ぱしぱしとスカートの埃を払いながら、あいねは勢いよく立ち上がった。
先ほどまでの弱りきった姿はもうどこにもない。毒素の抜けた傷口は、記録映像を逆回しにするようなすさまじい速度で塞がりつつある。外傷の汚染さえ取り除いてしまえば、もともと大した傷でなかったのだから修復に時間はかからない。治療のために長い時間をかけなくても、そのうち跡形もなく消えてしまうだろう。
僕のほうはといえば、情けないことに膝をついたまま動けない。覚えたてのESPを試したところで、ちょうど精神力が限界にきたようだ。緊張しすぎて頭に血が上ったのか目まいがするし、それ以前に手も足もだるくてたまらない。このまま横になっていい状況なら、寝転んで十も数えないうちに熟睡できる自信がある。
「まったくもう、何なのかしらあの鬱陶しい生き物。咬まれたところはすごい色に腫れるし、だんだん身体が熱っぽくなってくるし……ガード・フォースってつくづく趣味悪いわよね、あんな気持ち悪いやつばっかり連れ回してるんだもの」
相槌を打つ体力もない僕と違って、あいねはそれなりに元気そうだ。もともと心を読むESPに長けているだけあって、戦闘中でも最小限の立ち回りで敵を仕留められる。さっきの戦闘でも不意を突かれなければ――猛毒の体液を持つ蛇、あの命知らずの「クレオパトラ」が彼女の脚に噛み付いてこなければ、無傷のまま勝てていたんじゃないだろうか。他人の戦い方なんて一朝一夕では真似できないけれど、力をなるべく温存しながら勝つ方法は、僕もみなみも少し見習わないといけないのかもしれない。
「あーあ、このブーツ気に入ってたのに。こんな大きな穴が開いちゃったら、恥ずかしくて履いてられないじゃない」
「ダクトテープでも、貼っておけば、いいんじゃないのか……」
「あんたそれ本気で言ってるの?」
ため息とともに突き刺さる、白けた視線がたまらなくつらい。疲れている時に慣れない軽口なんか叩くから、こんな目に合うんだろうか。冗談がうまくないのは生まれつきだとわかっているけれど、だけどそれにしたって毒の治療は僕がしたんだから、そのぶんは手加減してくれてもいいんじゃないか。
彼女に限った話かそうでもないのか、女の子ってつくづく、気分屋で扱いづらいものだ。
「まあ、その。だけどさ」
よっ、と。
毒蛇の牙を瓦礫の間に放り投げながら、思い出したかのように彼女はつぶやく。
「あんなにすぐ治るなんて思わなかったから、ちょっとびっくりしちゃった。ありがと」
「あ、うん。別に、これくらいなら」
放物線の彼方をぼんやり眺めていた僕が、とっさの言葉にうまく対応できるはずもない。慌てて振り返ってみれば、あいねは何事もなかったかのようにすたすたと歩き出していた。コンベアの名残らしき舗装路を行く足取りは健康そのもので、さっきまでの不調の名残はどこにも残っていない。あえて気になる点を挙げるとすれば、切り揃えられた髪の合間から覗く、形のいい耳がほの赤く染まっているくらいで……。
しかしなんであんなところが赤いんだろう。
「……あと、ひとつ言っておくけど」
壊れた街灯の真下くらいで、ふと彼女は立ち止まった。僕のほうには顔を向けずに、ふだんよりだいぶ小さな声でつぶやく。
「さっきの、その、私がどんな顔してたかとか、どのくらい痛がってたかとか。みなみくんに言わないでよ。……ぜったいだからね!」
うん、ともいやだ、とも言う暇さえない。
叩きつけられた言葉に呆然としているうちに、あいねの姿は警備ロボットの残骸に紛れてしまった。たぶん潰れた機械の中から、懐の足しになりそうな資材を集めるのだろう。
ついたままの膝を起こしもできないまま、僕は彼女が歩いていった方向をばかみたいに眺めていた。たぶん、10分くらいはそうやって時間を浪費したに違いない。
気付いたら、横にみなみが立っていた。僕があいねを治療している間、使えそうなものを探してきてほしいと頼んでいたのだ。
「しば、大丈夫?」
「……ああ、まあね。僕は大したことない。そっち、何か見つかったか」
「うん。『クレオパトラ』の皮をね、こう、剥がせないかなってナイフ入れてみたら。ぺろって」
きれいに剥けたよ、とぬめぬめした蛇皮――ごていねいに、体液がつかないようぼろきれでくるんである――を見せてきた彼に、僕はあいまいなうなずきしか返せなかった。こういう生物の体組織は利用価値が高い。頭が満足にはたらく時なら使い道を考えられるだろうけど、いかんせん、今はろくに反応する気力もなかった。
ああ、なんだかひどく熱っぽい。戦いで力を使いすぎて、身体に反動が来ているのかな。
それにしては不快じゃないというか、頭の中がふわふわするような感覚は、どちらかと言えば気持ちいい方なのか。
「……ありがとう。それは僕が預かるから、そのまま丸めておいてくれ」
「わかった。でも、本当に平気?」
「何が」
「何が、っていうか……うーんと……」
いつもの様子からすれば珍しいほど、みなみは言葉に迷っているようだった。やがて、これでいいのだろうか、とでも言いたげなそぶりで、おずおずと口を開く。
「今ね。しばの顔、真っ赤だよ」