世の中にはわからないことが多すぎて


「『かりう』ってなに?」

 

 なにげなくつぶやくと、傍らの彼がわけのわからないものを見るような目つきをした。

 

「何だよ、いきなり。『かりう』は『かりう』だろう。それ以上でもそれ以下でもない。組成について詳しく知りたかったら、僕よりあの薬剤師さんに聞いた方がいいんじゃないか」

「いや、そういう意味じゃなくてさ。『かりう』はどうして『かりう』って名前なのかなあって、急に今気になったから」

「そんなこと考えてどうする……」

 

 すべすべとした額にうすく眉根を寄せ、ため息をついて彼が寝返りを打つ。身じろぎの拍子にこすれた上掛けが、心地よい音を立てて寝台を滑る。

 マムスの村で過ごす夜は長い。敵襲を警戒し、常に気を張らねばならない外界での探索と違って、村ごとシールドに包まれている安心感は計り知れないものがある。それゆえに満ち足りた眠りを味わいたくもなれば、この穏やかな時間をずっと噛み締めていたいとも思う。ゆるやかな眠気はつねにもどかしい幸福を孕んで、時どきこんなどうしようもない疑問を、意識の底から不意に呼び起こすのだ。

 

「『かりう』に限らなくても、ああいう薬品の名前なんか『とれろ』とか『ふれっと』とか『らどほ』とか『はいぷ』とか、由来が分からないものだらけじゃないか。そういうのまでいちいち考えてたらキリがないぞ」

「うーん、それはべつに気にならないんだけど」

「何でだよ……!」

 

 ひどく難しい問題に直面した時のように、苦しげな表情で少年が呻く。大きい声を出すと隣室の二人が起きるよ、と告げると、なぜだか彼は物言いたげに己を睨んだ。

常日頃は大人びて冷静な印象のある彼だが、間近で見ているぶんには年相応に感情豊かだ。声を荒げたり露骨に不満を顔に出したりすることこそないものの、仕草を見ていればその時の気分がよく表れている――髪を整えるのは余裕がない時、視線を伏せるのは言いづらい言葉を隠している時、バンダナを結び直すのは照れくささをごまかす時、挙げればまだまだキリがない。

 つねづねにぶいと言われる自分にもこれくらいは分かるのだから、精神感応の力を持つあいねなら、もっと多くの感情が見えるだろう。共にいる時の彼女は控えめに笑むばかりで、自ずから何かを口にする機会は少ないのだが。

 

「……みなみが変なことを言うから、眠気がどこかに飛んじゃったじゃないか」

「じゃあ眠くなるまで話そうよ」

「何について?」

「なんでもいいから」

「またそうやってぼんやりしたことを言う……」

 

 不承不承、といった調子ながら、それでも彼がこちらを向く。寝台に頬杖をつきながら小さく欠伸をする、気だるげな様子はさして嫌そうにも見えなかった。何だかんだ彼も付き合いのいい性格なのだろう。何事にもつねに一歩引いて見えるのはきっと、慎重な選択を迫られ続けてきたゆえのことであって。

 

「ええと、そうだな。おねえさんって、いくつだと思う?」

「お姉さん……あの、いつも治療してくれる人か」

「うん。見た目は僕たちよりちょっと上かなって思うんだけど、でも時どき、お母さんがいたらこんな感じかなって気もするし。本人に聞くのは失礼だよね、こういうの……」

「聞かれても困るだろうしな、あの人だって」

 

 言いながら先日のことを思い出したのか、薄い肩を震わせて少年は笑う。自分にとってはあいにく、それほど楽しくない記憶だ。アークシティの郊外を探索中、偶然見かけた敵の呼び方で、女子二人にひどく怒られたことは正直今でも納得がいかない。

 自分はただ、女性のデスサイキック――拾った識別票では「メシア」となっていた――を、何の気なしにおばさんと呼んだだけだったのだが。

 

「別にみさちゃんたちの悪口を言ったわけじゃないのになぁ、前のあれは」

「女の子に歳の話はもってのほかだよ。もちろん年上のお姉さんたちにもね」

 

 取り澄ました顔で告げる彼は、こういう時だけやけに年上ぶった態度を見せる。自分とはそれほど歳が離れていないはずなのに、物言いの差はどこから来るのだろう。

 

「でもたぶん、みなみの感覚はそこまで間違っていないよ。見たところ、あの人は相当の治癒能力の使い手だ。人づてに聞いたことがあるけど、治癒のESPは僕の空間跳躍と同じくらい調整が難しいし、いつでも最大限の効果を出すのだって並大抵の力量じゃ一苦労だ。それをかるがる使いこなすんだから、やっぱりあの人はそれなりに苦労して、ESPを制御するための経験を積んできたんだと思う。ひょっとしたら、まだ僕らが見たことのない力も持っているかもしれないね」

「……しばって、いつもそういうこと考えてるの?」

「そこまで僕は暇じゃないさ」

 

 こともなげなつぶやきと共に、淡いみどり色の双眸がゆっくりと細められる。視線の先に何が見えているのか、薄闇の中ではいまひとつ判別が付かない。ただ、わずかな光を反射して光る瞳が、とても穏やかな色に感じられるだけで。

 

「じゃあ、違う話もしていいかな」

「いいよ。この際だから、言うだけ言ってみるといい。どうせしばらく寝られないだろうからね」

「『かりう』の話は?」

「……あれは僕の手にも負えないから、なしで」

 

 ふたつ並んだ寝床に転がって、他愛のない話をする。隣室から物音は聞こえない。仲間の少女たちはどちらもひどく疲れていたようだから、今頃ぐっすり眠っているのだろう。彼女たちがもしここに居たのなら、どんな話をしてくれるだろうか。二人ともきっと自分では気がつかないことを、よく知っているに違いない。戦いばかりの旅路では、ささやかな話の機会すら満足に巡って来ないのだが。

 

「ええと、じゃあね。闇市、あるでしょ。あそこってなんで、一番えらい人がいい商品を抱え込んでるんだろう。普通に売ったらまずいのかな」

「買いに来る人間を試してるのさ。変な相手に上物を売りつけて、そこから足がついたら商売上がったりだろう。前に僕らに仕掛けてきたように、それなりの実力がある相手じゃないと取引したくないんだろうね」

「そっか。じゃあね、アークシティのIDカードって、なんであんなに細かく色分けされてるんだろう。使い分けるのが面倒くさいよね、いつも」

「僕らの使い方がイレギュラーなだけだよ。普通の市民は一人一枚、決められた階級の色しか持たないだろうし。軍部の人間はそんなのお構いなしだ」

「そうか。言われてみれば、そうだよね。それじゃあ、ええと、何だろう」

「まだあるのか?」

「……白いワニは、どうして攻めてくるのかな」

「ワニにもワニの事情があるんじゃないか」

「事情って?」

「さあ。僕はあいにくワニの生き方に詳しくないから、そこまでは分からないな。それで、次は?まだ話したいんだろう?」

「……うーん。……大したことじゃないかもしれないけどさ」

「何」

「あいねちゃんとみさちゃんって、どっちが大きいのかなぁ」

「!」

 

 がばり、と彼が身を起こす。厚いとは言えない壁の向こうに目をやる、上半身の動きは心なしか焦っているようだった。次いで、整った顔立ちがこちらに振り向く。吊り上がったまなじりは、「かりう」の話を振った時よりもなぜか剣呑だった。

 

「みなみ、お前。よくそんな話するな、こんな壁の薄いところで」

「壁の厚さが関係あるの?」

「あるよ、それは。大ありだよ。ことによると、僕たちの明日の身の安全にも関わる」

「そんなに?」

「だって、それは、女性にとっては……重大なことだから…」

 

 聞き取れないほど言葉尻を弱め、みどりの髪の少年はもごもごとつぶやく。先ほどまでの落ち着いた物腰はもう、とっくに吹き飛んでしまっていた。彼がこんなに動揺するのを見たのはいつぶりだったか――洞窟で樹の上から敵に襲われた時、病院の壁をブレイクで消し飛ばした時、行政区で痴漢と詐欺師のコンビにケンカを吹っかけられた時――考えてみるとそれほど稀ではないし、半分以上自分の行動が原因だがこの際それは別問題だ。

 

「そうなんだ?こういう話って、男の方が気にするのかと思ってたよ。女の子も言わないだけで、けっこう考えてるのかなぁ」

「当たり前じゃないか、そんな……確かに個人差はあるかもしれないけど、人によっては真剣に気にするんだからな。みなみもあんまりあの二人をじろじろ見て、気に病ませないようにするんだぞ」

「でも、二人ともブーツ履いてるから、ぱっと見ただけじゃ分からないよ」

「……ブーツ?」

 

 ひどく訝しげな顔をされる。何かまた、自分はまずいことを言ったのだろうか。言葉を探しているらしい相手の様子を、寝台に頬杖をついたままじっと見つめる。どうして彼はあんなに顔を赤くしているのだろう。二人に怒られるところを想像して、慌てでもしたのだろうか。それとも何か、彼にしか分からない理由があるのだろうか。

 ……彼がようやく落ち着きを取り戻したのは、たっぷり十数秒ほど経ってからのことだった。

 

「みなみ」

「何?」

「……僕たちは何の話をしていたんだっけ」

「え?あいねちゃんとみさちゃんの話だよね。背が高いのはどっちかなって、いつも気になってたから」

「……そうだよな。お前は、そういうやつだものな。僕がバカだったよ。考えすぎだった」

「しば、何言ってるの?」

「ただのひとり言だから気にしないでくれ……」

 

 夜闇の中に、ふうっ、と長いため息がとける。はっきりとは見えないが、どうやら彼はひどく疲れているようだった。糸の切れた操り人形のように上体が傾ぎ、そのまま寝床へ沈み込む。古ぼけた寝台から上がる軋みは、どこかしら、自分を非難しているようにも聞こえた。

 

「何だかわからないけど、ごめんね。疲れさせちゃったみたいで」

「いいさ。僕もけっこう気が紛れた。まさかみなみがこんなに知りたがりだとは、思ってもみなかったけどね……」

 

 目元まで落ちてきた前髪を払い、ひそやかな笑い声を彼が漏らす。ほどよく力の抜けた表情は、相手自身眠りに落ちる寸前であることを示していた。細められた瞳は今にも閉じそうになりながら、緩慢なまばたきを繰り返している。

 そのまま二人、何を口にするでもない。少しずつゆるやかになってゆく相手の呼吸が、他愛ない長話の終わりを示す。もはや起きているのかいないのかも判然としない、相手の横顔を眺めながら、告げられなかった言葉をつぶやく。

 

「……知りたいよ。もっとたくさん、いろいろなことを、僕は知りたい」

 

 なぜ自分には記憶がないのか。なぜサイキックは人間と違う力を持って生まれ、追われ、狩られるのか。なぜ人々は一様に、不自然なまでの平穏を享受しているのか。おそらくはこの世の果てにあるだろう、真理に至る道は未だ見えない。

 窓辺から差し込む月明かりが、川の流れのように揺らいでいる。闇をおよぐ光に片手を翳しながら、長く、静かな呼吸を繰り返す。とろとろと押し寄せる、穏やかなまどろみが心地よい。胸の深くに抱え込んだわだかまりも疑問ももろともに包んで、安らかな眠りの淵へとさらってゆく。

 

(世の中にはわからないことが多すぎて、今の僕じゃ、きっと一度には受け止めきれないけれど)

 

 それでもいつか、辿り着ける気がしている。自分ひとりだけでは叶わなくとも、共に旅をする友たちがいるのなら。心通わせた彼ら彼女らとならば手を取り合って、きっと、ゆけると信じている。

 天の星のように遠く霞む、すべての答えがある場所へと。

 

 意識があたたかな闇へと沈む。感覚が消失する寸前、誰かが、自分の手を握る。どこか懐かしい泥濘に落ちてゆきながら、なぜか、わけもなく涙を流しそうになった。

 

 閉じた瞼の合間に滲む、このあたたかいものの理由も、いつか誰かが教えてくれるだろうか。

 

 

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