冬来たりなば


 白い肌に指先で触れた瞬間、いた、と小さな声が響いた。

 

「リナリア……」

 

 少し困ったように伏せられる、柘榴石に似た色あいの瞳。雪渓の清流と見まごうほどつややかな髪を揺らし、彼女はわざと大げさに肩をすくめてみせる。顔色は、普段とそれほど変わりない。透きとおるような彼女の肌は、もともと色白な者が多い村でも際立ってよく映える。

 

「今、わざと、痛いようにやったでしょ。君の考えることくらい僕にはお見通しだよ」

「……デュランタが無茶するから、いけないんだもん。ちょっと腕が立つからって油断して、こんな怪我まで作って帰ってきて」

「それは悪かったけど……あいたた、だから痛いってば……」

 

 軟膏を塗る指にますます力が入るのは、何もかも分かっている、とでも言いたげな親友の顔のせいだ。どうということはないかすり傷に、ぐりぐりと——それこそ音が立つほど——薬を塗り込むと、さすがの彼女もかすかに顔をしかめる。

 

「ご、ごめんね。つい、力入れすぎちゃったみたい」

「リナリアの愛って、ときどき僕より過激だよね。まあ、君のすることなら、僕は何だって受け止められるけど」

「もう、またそうやって訳のわからないこと言うんだから……」

 

 今しがた言われたばかりなのに、またやってしまった。

 擦りむけた肌を慌てて撫でれば、切れ長な紅の瞳がどこか恨めしげに己を見る。とりたてて、気分を害した様子ではない。何につけ彼女は鷹揚というより、周囲への関心が薄い人間だ。細かな文句や皮肉を口にする機会こそ多いが、他人に向かって言葉を荒げる場面など、それこそ片手の指で足りるほどしか目にしたことがない。

 

「まあでも、君に心配されるってのは悪い気分じゃないね。リナリアってば、最近ちょっと僕に冷たい感じだったしさ」

「そんなことないもん。……でも、本当に大丈夫?こんな派手に怪我するの、久しぶりでしょう」

 

 デュランタが目に見えるほどの怪我をするのは、いつぶりのことだったろう。

 まだ幼い頃、我流で剣を学び始めた時分、彼女はひっきりなしに打ち身やら擦り傷やらを作っていた気がする。身体中に生傷を作った友人が帰ってくる度、自分はありったけの傷薬を箱に詰め、手当ての必要がなくなるまで広い家に通ったものだ。

 共に暮らし始めた時は日常茶飯事だったそれも、少しずつ数を減らし、今では一番軽い擦り傷用の軟膏すら持ち出す機会が少ない。村の中のみならず、近隣の街に出入りする冒険者と比べても、デュランタはかなりの剣の使い手だ。最初こそ森の入口に湧く魔物に手こずりもしていたが、修行らしい修行を終えた近頃ではもう、彼女を止められる者は誰もいない。

 だからこうして手当てをする機会など、おそらくこれからもう、ほとんどめぐってくることはないのだ。

 

「そこまで念入りにやらなくたって、大丈夫さ。元々大した怪我でもないし」

「そんなこと言って、悪いものが入ったらどうするの。変な病気になっちゃうよ」

「平気だってば」

 

 二の腕にこしらえた浅い傷を眺めながら、いつものように彼女は微笑む。

 

「僕はなにせ、こんな身の上だろう。病だって、向こうの方から避けて通るよ。好きこのんで白髪の忌み子に取り付くやつがいるもんか、考えてごらんよ、ねぇ」

「分からないじゃない。なってみないと」

 

 軟膏を詰めた瓶の蓋を閉める、手のひらがわずかに震える。彼女に気取られないように、うまく言葉を出せているだろうか。何でもないことのように、返事ができているだろうか。

 彼女が自分の生まれを嗤う度に湧きあがる、どろどろとしたこの思いを——胸の奥に氷の刃を刺しこまれるような痛みを、自分は、きちんと隠せているだろうか。

 

「薬屋さんの子のくせに、リナリアは変なことを言うなぁ。そんなに僕を病気にしたいのかい?付きっきりで看病してくれるってことなら、もちろん大歓迎だけど」

「そんなの、いつもと変わらないでしょ。今だって毎日ごはんも作ってるし、繕い物もしてるし、お掃除だって、洗濯だって……」

「ほんとだ。どうやってもリナリアには頭が上がらないね、こりゃ」

 

 風に揺れる木の葉のような、かろやかな声を上げてデュランタは笑う。

 彼女がそうして笑い声を立てる瞬間が、たまらなく好きだった。何に対してもどこか冷めたまなざしを向ける彼女が、ほんのわずかの間でもあたたかい笑みを浮かべてくれる、それだけで救われたようにも思えた。それはとりもなおさず、無情で寄る辺のないものに冷たいこの世界に対して、彼女がまだ愛想を尽かしていない証明でもあったから。

 

「……君に会えて、よかったな」

 

 ぽつりと、つぶやく声が聞こえた。

 常日頃のからかうような口調は、少しだけ影を潜めていた。

 

「もしあの時君と出逢わなかったら、僕は今でもあの薄ら寒い場所で、いつまでも空をぼんやり眺めていたかもしれないよ。それはそれで人付き合いなんか考えないで済みそうだから、気軽でよかったかもしれないけどね」

「ダメよ、そんなの。デュランタをあんなところに放っておいたら、あっという間に干からびちゃうでしょ。今だって十分面倒くさがりなのに、これ以上楽しようとしてどうするの」

「僕の中では、単に君の優先順位が一番ってだけなんだけどなぁ」

「もう。デュランタってば」

 

 本当に私がいないとダメね。何の気なく言いかけてふと、言葉のあやうさに口をつぐむ。不思議そうに首を傾げる友人の肩越し、暖炉にくべた薪がぱちり、と火の粉を散らす。

 

「どうしたんだい。……何か僕、気に障ることでも言ったかな」

「ううん、そうじゃないの。ただちょっと、他のこと思い出しちゃって」

「……そうなんだ?」

 

 真白い包帯の束と軟膏、煎じた薬草の粉末に乳鉢。卓上の道具を片付けつつ、さりげなく友人に背を向ける。背後にあるだろう表情は、振り返らずともはっきりと思い浮かべることができた。

 彼女はきっと、よく見慣れたあの顔をしているに違いない。いくら剣技を磨こうと、村の誰より強くなろうと拭いきれない、影を滲ませた暗い表情。心を許した者から見捨てられる日を何より恐れながら、半ば無理矢理恐怖を押し殺し、何でもないように振る舞ってみせる。そういう芸当ができてしまうのだ、デュランタという人間は。

 そしてそんなさびしさを植え付けてしまったのは、きっと、他の誰でもない。

 

「僕と話してる最中に目移りするだなんて、リナリアはいけない子だなぁ。ねぇ、誰のことを考えてたんだい?怒らないから言ってごらんよ」

「そういうのじゃないってば、もう……」

 

(私が)

 

 振り返ればもう、普段通りの表情をした彼女がそこにいる。楽しげに瞳を細めたその顔に、恐れていたかげりは見いだせない。

 

(私がいつも、誰のことを考えてるかなんて)

 

「デュランタったら、すぐそうやって茶化すんだから。だいたい、身近にこんな手のかかる人がいたら、危なっかしくて違う方なんか見てられないでしょ」

「危なっかしいのは、君も同じだと思うけどなぁ」

 

 薬師道具を詰め込んだかばんごと、細身の友人の隣に腰かける。ふと目をやった窓の外では、相変わらず雪が降り続いていた。夜明け前から舞い始めた風花は、にびいろの空の下に音もなく積もり、目に見えるすべてを白く塗りつぶそうとしている。暖炉いっぱいに火を焚いても忍び込む寒さは、日が暮れればますます勢いを増すだろう。今夜の寝床は、さぞかし冷えるに違いない——そこまで考えてふと、無意識に相手へ身を寄せる己に気づく。

 

「どうしたの。リナリアからこんなにくっついてきて、珍しい」

「だって、雪が」

「雪?……ああ」

 

 そういえばずっと降っているね、と。

 あざやかな緋色のまなざしが、夕闇に染まる雪景色へと注がれる。二人がけの椅子で身を寄せ合いながら、整った横顔を気づかれぬように見つめる。

 朱い双眸、形のよい唇、しなやかな手足、豊かにこぼれ落ちる星色の髪。こんなにも美しくつくられた姿をなぜ、古い口伝は忌み子と呼ぶのだろう。あるいは誰の目にも秀ですぎるからこそ、ひとはそれを否むのかもしれないが。

 

「でも、じきに止むよ。明日にはきっと、久々の青空が見られるはずさ。そうしたら屋根の雪下ろしとか、旅支度とか、先送りにしてたこともいろいろ取り掛からないといけないけどね」

「うん」

 

 しなやかな指先が、ゆるゆると髪をくしけずる。この手をおそろしく感じたことなど、自分にとってはただの一度もない。快い感触に目を閉じかけながら、心のうちにとりとめもなく考える。これからのこと。夜が明けたら。春が来たら。

 彼女が村の外へと旅立ち、ひとり、帰りを待つその時のことを。

 

「寂しいのかい?」

「……ちょっとだけ。たぶん、すぐに慣れちゃうと思うけど」

「本当かなぁ」

「慣れるもん。世話を焼く人が減るから、却って楽になるくらいだもん」

「うーん、それを言われちゃうと、さすがに僕も立つ瀬がないや」

 

 肩をすくめる彼女の表情に、悪びれた様子はみじんもない。暖炉の炎よりもさらに深い色の瞳が、おだやかな光に満ちてこちらを向く。

 胸の奥に、何かがじわじわと広がってゆく。あと幾たびかの夜と朝がめぐればもう、こうして彼女と向かい合う機会もなくなるだろう。今はまだ、考えられない——気づきたくない。当たり前のようにそばに居てくれた姿が、どこを探しても見当たらないその時のことなど。

 

「僕は、寂しいよ?たぶんしばらく毎朝起きたら君の姿を探すだろうし、どこで食事をしてもいちいち君の手料理の味と比べちゃうだろうな。眠れない夜には君のことを必ず思い出すし、旅先で見た女の子はみんな君より可愛くないなって考えちゃう」

「じゃあ、行かなきゃいいじゃない。旅先でそんなにあれこれ考えるくらいなら、ずっと村にいればいいのに、そんなの」

「違うよ」

 

 ささやく声音は、今までに聞いたことがないほどにやさしかった。

 

「寂しくなるから、きっと君の大切さを痛いほどに知るだろうから、行くんだよ。ここで君に甘え続けていたら、僕はたぶん、いつまで経っても一人前になれやしないから」

「デュランタ」

「……なんてね」

 

 少しだけ照れくさそうに、彼女があらぬ方を向く。自分よりもだいぶ大人びた顔立ちは、初めて見た時よりずっとやわらかな雰囲気を増していた。

 背丈も体つきも、出会ったあの日のままではない。見える景色も、できることも、幼い頃に比べてずいぶんと増えた。何もかも日々変わり続けているのだ。自分も、デュランタも、二人が今生きている、この世界も。

 

「どれだけ長い間降り続いたって、雪はいつか止むだろう。それと一緒さ。いつまでも同じままのことなんてないから、だからもっと、新しいものを見たいんだ。……君が待っていてくれるのを分かってて、こんな風に言うのはずるいかもしれないけどね」

「……ううん」

 

(そうよ。冬が来れば、いつか春も来るんだわ。私のところにも、デュランタのところにも)

 

 ひとりの人間の思いだけで、刻をとどめておくことは叶わない。時が来れば季節はめぐり、生命は息吹き、そして旅立つものがある。あるがままに生きようとするものの心を、身勝手な願いで縛り付けてはならない。どれほど長く共に暮らした相手でも、どれほど離れることで胸が痛んでも。互いの幸福へ繋がる道は、たったひとつでないと知っているから。

 だから。

 

「ねえ」

「何だい」

 

 おだやかな微笑みを湛えて、デュランタがこちらに視線を向ける。息が苦しくなるような胸の痛みは、もう、自分の中にはない。

 だから告げる。いずれ来る別れの瞬間の前に、どうしても伝えなければならない気持ちがある。旅立つ彼女のために、そして自分も、勇気を持ってこの先へ踏み出してゆくために——。

 

「明日。明日もし晴れたらね、デュランタに」

 

 

 お願いしたいことが、あるの。

 

 

 

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