子どもの情景


 手紙を握り締めた彼の表情は、少なからず緊張しているように見えました。

 

「ええと、……『はい』……『は』……」

「『拝啓』かしら」

「あ、それだ、……『拝啓 この村でもっとも美しく強いあなたへ。突然の手紙をどうぞお許しください』……」

 

 家々を照らす穏やかな日差し。ちぎれた雲の影がまだらに彩る、のどかな村の昼下がり。見慣れた平和な風景の中で、私は今、いわゆる愛の告白を受けています。それも自分よりずっと年下の、小さくてかわいい男の子から。

 

「『初めてこの村に来た時から、あなたがずっと好きでした。自分からは声をかけることもできませんが、いつも気になって、あなたのことを見ています』」

「まあ。そうなの?」

「そうみたい」

 

 私の声にいっとき顔を上げ、無邪気なしぐさで彼はうなずきます。日なたの風を受けた藍色の髪が、さらさらと心地の良い音を立てました。子どもらしいすべすべとした額の下で、ふたつのまるい瞳がじっとこちらを眺めています。

 彼の目には今、私の顔がどう映っているでしょうか。願わくばいつものように、落ち着いた様子に見えていればいいのですが。

 

「もう、誰だかわかっちゃった?」

「そうね、どうかしらね……もう少し聞いてみないと」

 

 あいまいな言葉とともにほほえむと、何も疑う様子のない彼は、つられたように満面の笑みを浮かべます。大人に比べればまだまだ細い肩越しに、向こうの木陰からなりゆきを窺う男の子の姿が見えました。最初に比べればずいぶん打ち解けてくれたけれど、若葉色の髪をしたあの子はまだ、心の底から私を信用してくれてはいないのかもしれません。彼やそのお友だちが味わってきただろう苦労を思うと、無理からぬことなのでしょうが。

 

「でも、とても気になりますね。続きを読んでくれるかしら?」

「うん」

 

 水を向ければ彼はすぐにまた、預かりものの手紙を読み始めます。訥々とした、けれど真剣そのものの声音には、自分が読み上げている内容への疑いなど微塵もないようでした。だから私もいつものように、彼の言葉を受け止めます。いっしょうけんめい頑張っている子どもを笑うなんて、およそいい大人のすることではありませんから。

 

「……『本当は、あなたもさびしい思いをしているのではないでしょうか。一人寝の夜に気持ちを持て余して、眠れないこともあったのではないでしょうか。いっそ思い切って身を任せてはくれませんか。今までにない、か』、か、……」

「『快楽』、ね」

「『今までにない快楽をお前に与えてやるよ』……、……快楽ってなに?」

「……楽しいこと、かしら……」

「ふぅん」

 

 ふと川辺に視線を向けると、落ち葉色の髪の女の子と目が合いました。蜜を固めたようにきらきら光る眼差しが、何かを問いかけるように私を見つめています。外から心を覗かれている様子はありません――テレパシ使いに「視られる」時には言いようのない、触れられればすぐに知れる感覚があるのです――から、単にこの状況を面白がっているだけなのでしょう。それにしてもこの挑発的な文面は、いささか私の好みから外れるものがありますが。

 

「居住区育ちの女の子は、やっぱりおしゃまさんね……」

「おしゃま?」

「何でもないですよ。それで、お手紙はあとどのくらいあるのかしら」

 

 指先を紙のふちに掛けると、慌てたように彼は身体を縮めます。袖口から覗く少年の腕は、旅立ちの時よりずっと逞しくなったように見えました。初めて村にやって来た頃の頼りなげな印象は、どこに目をやろうともう見当たりません。

 

「あ、全部読み終わったら渡すから、だからもうちょっと待って……」

「そうでしたね。ふふ、ごめんなさい」

 

 実のところ、何が書いてあるかはだいたい分かっているのです。横から読み方を教える時に文面を見てしまえば、さほど長くない手紙です、最後まで目を通すのは難しくありません。それでもこの子がするままに任せてしまうのは、私自身人恋しさを持て余しているあかしなのでしょうか。

 

「……『もし、私の気持ちを受け入れてくれるなら、とても嬉しく思います。あなたを大切に思う心は、村の誰にも負けません。たとえどんな敵が来ようと、必ずあなたを守ってみせます』」

 

 気を取り直して手紙を読み進める、彼の声に耳を傾けます。刺激的な文章の後に続いたのは、打って変わって奥ゆかしいほどに誠実な、文字どおり恋文に相応しい内容でした。まるで年頃の少女が夢に見るような、甘く、やさしく、幼い感傷に満ちた言葉ばかりの。

 ふと顔を上げると、あぜ道の向こう側に小柄な女の子の姿がありました。立ち並ぶ木々の合間、さやかな風の音に合わせて、淡紅のきれいな髪がなびいています。物陰に隠れた顔がわずかに赤いのは、彼女自身が心に留めた誰かを思い浮かべているからでしょうか。

 ……そういえば私にも、ああして淡い思いを抱いた頃があったのです。まだちっぽけな力しか持たない、ただの子どもであった頃。この子たちと同じように傷つき、かけがえのないものを失いながら、それでも自分の生きる道を探し求めていた頃が。

 思い出すには遠ざかりすぎてしまった、それはずっと昔の話だけれども。

 

「『好きです。たった一人あなただけを、私は心から愛しています。この気持ちを受け入れてくれるなら、どうか私と……』」

「……はい。もう、そこまででいいですよ」

 

 紙の上に片手をかざして、私は彼にそう告げます。青みを帯びた薄い紙の上には、古いインクで書かれたのでしょう、少し褪せた色の文字がきちょうめんに綴られていました。流麗、というほどではありませんが、書き手の人柄を感じさせるようなきっちりとした筆遣いです。経緯も知らず、ただこれだけを手渡されたのであれば、私も素直に喜べたのかもしれませんが。

 

「もしかして、気に入らなかった?」

「いいえ」

 

 こわごわと見上げてくる彼のひとみは、夜が明けきる直前の空に似た、胸のすくような光をたたえています。宥めるようにほほえみかけると、不安げだった彼の表情は、すぐに明るい笑みへと戻りました。それでも深い群青色のまなざしは、言葉の意味を掴みかねたように、私の顔をじっと眺めています。

 

「素敵なお手紙でしたね。私のためにみんなでいろいろと考えてくれたみたいで、とても嬉しかったですよ」

「え?……あっ」

 

 指先で紙をつまみ上げると、一瞬遅れて彼が手を伸ばします。あわあわと両腕を差し出すしぐさはどこか、草の穂とたわむれる仔猫のようでした。ぎりぎり届かない高さで手紙を振ってみせると、慌てたように彼はかかとを浮かせて――おやおや、こんなひどい真似を子どもにするなんて、私も勢いに当てられてしまったのでしょうか。

 

「あの、あの、えっと、なんでわかったの?…じゃなくて、ち、違うよ!みんなで中身は考えたけど、でも、直接書いたのはあのお兄さんだし……」

「あら、そうなのね。どのお兄さんかは分かりませんけど、お手紙の中身をあなたたちのような子どもに任せるなんていけない人ね」

 

 うろたえる彼の後方で、みどりの髪の男の子がふかぶかと頭を抱えています。表情こそはっきりと見えませんが、指の合間から見える投げやりなまなざしは、「だから止めろと言ったのに」とでも言うかのようでした。決して気乗りはしないけれど、みんながやりたいと言うからしぶしぶ付き合った――そんなところでしょうか。

 何だかんだ言いつつ友人思いな彼を、実のところ、私はけっこう気に入っているのです。

 

「お兄さんは悪い人じゃないよ!あそこのルクの木に実がなってて、でも僕たちじゃ手が届かなくて、『ブレイク』じゃこっぱみじんにしちゃいそうだからどうしようかって言ってたら、代わりに取ってくれて、それでね、その……」

「木の実を渡してもらう代わりに、お手紙を書く手伝いをしたのね。……そう、それなら、私が何かを言う筋合いもありませんね」

 

 本当は、そんな交換条件を持ちかける大人も、いい年をして何をやっているのかと思うけれど。内心のつぶやきをぐっと呑み込んで、私は目の前の子どもにほほえみかけます。くるくると表情を変える少年は、私のほうに怒った様子がないのを見て取ってか、あからさまにほっとした顔つきになりました。素直な性格はみなみくんの長所のひとつですが、こうも考えが顔に出やすいと、いささか心配を感じないでもありません。彼よりは世慣れしているだろうお友だちが、そのあたりの機微を教えてくれればいいのですが。

 

「親切なお兄さんには、私からちゃんとお返事をしておきます。あなたたちも忙しいでしょうに、長々と付き合わせてしまってごめんなさいね」

「ううん!そんなことないよ。他のひとに手紙を書くことなんて、僕、今までなかったから。それに……」

「それに?」

「……こんなにたくさん、誰かに好きって言ったのも。たぶん初めてだと思う」

 

 

 ほんの一呼吸だけ、時が止まったように感じました。

 

 

 今の彼はまだ、見下ろすくらいの背丈の子どもです。けれどもその眼差しは怖いくらいまっすぐで、正面から視線を交わし合えば、身体の中心を射抜かれてしまいそうなほどでした。いつから彼は、こんな目をするようになったのでしょう。村を出て行ったあの日、何度もこちらを振り返った顔は、巣から落ちたひな鳥のように心細げだったのに。

 

「お姉さんは、誰かを本当に好きになったこと、ある?」

「……そうね。ずっとずっと昔には、そんな気持ちになったことがあったかも。だけど昔のことすぎて、あまり思い出せませんけどね」

 

 本当は、ちゃんと覚えていたのです。だけれどもどうしてか、口に出しては言えませんでした。思い出せば否応なく、過去へと目を向けなければならなくなります。いたいけなこの少年のひとみを通して、自分自身が切り捨ててきたもの、すくいきれなかったもの、てのひらからこぼれ落ちたすべてのものに、もう一度視線を向けなければならなくなるのです――けれどどこを探しても、それだけの勇気は私の中にありませんでした。

 

「お姉さん?」

「……あなたはもっと、みんなに好きだと言ってもいいのよ」

 

 腰をかがめて、うつくしい瑠璃のひとみを見つめます。両のまなこにうつる私は、上手に大人の顔をしていられたでしょうか。すこしだけ怯えるように細められた眼に、あたたかくほほえみかけられたでしょうか。

 

「たとえあなたにどんな力があっても、おそれないで。あなたのそばにいてくれる人に、好きだと伝えてあげてくださいね。私たちに宿る力は、心の力。あなたが誰かを思う気持ちが、あなた自身を守る剣にも、あなたの愛する誰かの盾にもなるのだから」

「心のちから……」

「そう。あなただけの、心の中にある力です」

 

 さやさやと、風がみどりの葉を鳴らします。長い呼吸ひとつほどの後、私はそっと彼の肩に手をやりました。触れた指先に伝わる体温は、村にやって来た時と同じ、いとけない子どものあたたかさ。だけれどももうこの子は、かつての彼ではないのです。

 

「あまり、お友だちを待たせてはいけないわね。今度こそ、付き合ってくれて本当にありがとう」

「……うん」

 

 いってらっしゃい、よい旅を。

 いつものように別れを告げると、彼は一旦、待ちぼうけの友人たちに向かって歩き出しました。だけれどもその足はすぐに止まって、何か忘れ物でもしたかのように、くるりとこちらへ向き直ります。

 すたすたと戻ってくるみなみくんの顔は、何か、とても大事なことを思い出したような表情をしていました。

 

「あら。どうしたの?」

「お姉さん。僕、言い忘れてたことがひとつあったよ」

「何かしら」

「あの。……あのね」

 

 もどかしげに言いよどむ彼。ふたたび身をかがめて、内緒話をするように耳を貸します。

 ――そよ風とともに、頬を撫でていくものがありました。ちくちくと硬い髪。上ずった呼吸。一瞬だけ肌に触れて通り過ぎた、ぬくもり。

 きっとまだ恋の意味さえも知らない、少年の、やわらかい熱のみなもと。

 

「僕、お姉さんのこと、好きだ。大好き!」

 

 息せき切って走った後のように、彼はそれだけを告げました。そして、くるりと背を向けて、今度こそ友人たちのもとへ帰ってゆきます――歩きながら、顔を上げて、徐々に小走りに――最後には風を切って、初めて空へ羽ばたいていく小鳥のように。頬に残る熱のなごりを撫ぜながら、何も言えぬまま、私は彼の背を見つめるばかりです。 

 忘れていたのか、それともわざと目を逸らしていたのでしょうか。子どもたちはひとあしひとあし進むごとに、私を追い越してゆくのです。いつだって子どもの成長は大人の想像を超えてゆくもの、気づけば遠い星の光のように、その姿は遥か先にあるものなのですから。

 いずれたどり着く旅の終着点で、この子たちはいったい何を目にするのでしょうか。かつて私や、私の愛した人が歩いた道をたどって、やがて、まだ見ぬその先で。悪意から身を守るために得た力、己を守るために手にしたはずの武器は、最後にはいったい何に――誰に向けてふるわれるのでしょう。

 彼らがどんな選択をしたところで、私にその善悪を判断する資格などありません。子どもたちも私も、押し寄せる時の中でせいいっぱいもがきながら、ゆく先を選び取るほかにないのでしょう。誰も立ち止まってはいられない、この過酷で無慈悲な世界において、子どもが子どものまま生きられる時間はあまりにも短いのです。

 

 それでも。

 

「……私も」

 

 ざあ、と。海鳴りのように葉擦れのひびく森を、四つの小さな後ろ姿が歩いてゆきます。次第に遠ざかっていくその背を見つめながら、ふと、自分の唇から言葉がこぼれるのを聞きました。

 

「私も、大好きよ。あなたたちのこと」

 

 

 願わくばどうか、この病んだ世界に少しでも多く、あの子たちが愛せるものを見つけられますように。

 

 

 

 

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